2019年02月15日

衣笠・江夏 昭和の野球を語りつくす

こんばんは。

  今年もスポーツニュースは、各球団のキャンプ便りでもちきりです。

  昨年、夏の高校野球で秋田を準優勝に導いた金足農業の吉田輝星投手が日本ハムに入団し、二軍宿舎でダルビッシュや大谷翔平が入寮していた部屋に入ったことが話題となりました。吉田選手以外でも、大阪桐蔭高校で春夏連覇に貢献した根尾昴選手(中日)や同じく大阪桐蔭高校の藤原恭大選手(ロッテ)。今年のキャンプの話題は、昨年夏の甲子園組の話題でもちきりです。

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(日本ハムの新人入団会見 asahi.comより)

  ところで、皆さんはNHKBS1で放送している「球辞苑」という番組をご存知ですか。

  プロ野球の歴史はかれこれ80年になりますが、この番組は野球でよく使われるキーワードをテーマとして、専門家や元プロ野球選手と共にそのキーワードを掘り下げていく、プロ野球ファンには堪らなく面白い番組です。先日のキーワードは「カットボール」。いったいどんなボールなのか、我々には得体がしれませんが、基本的にはスライダーに良く似た変化球だそうです。ただし、その軌道は独特で、どちらかというとバッターの胸元で揺れ動き浮き上がりながら巻いていくボールなのです。まるで魔球ですね。

  この番組では、日本ハム、ダイエー、中日で活躍した武田一浩投手が出演し、カットボールの握り方やその球筋など、分かりやすく解説してくれました。さらに投手側では、中日でカットボールで大活躍した川上憲伸投手が、カットボールを習得した理由やなぜ威力があるか、などリアルな話を聞かせてくれます。カットボールの打率が高い選手は誰なのか。番組では、打率ベスト5が語られました。1位は中日のビジエド選手で467厘。以下、ヤクルト青木宣親選手、中日北條史也選手、広島(巨人)丸佳浩選手、そして西武秋山翔吾選手(449厘)となります。

  番組では、なんと秋山選手が、左バッターがどのようにカットボールに対応しているかを詳しく話してくれました。企業秘密に近い話だと思うのですが、秋山選手の懐の深さには脱帽です。しかし、カットボールの攻略は半端ではないようです。

  野球も年々進化していますが、先日本屋さんである対談本が目に留まりました。あまりのワンダーに一も二もなく手に入れました。

「昭和プロ野球の裏側 友情と歓喜の裏側に何があったのか」

(衣笠祥雄 江夏豊 二宮清純著 廣済堂新書 2018年)

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(「昭和のプロ野球を語る」amazon.co.jp)

【衣笠・江夏 無二の親友の対談】

  「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄氏が亡くなったのは昨年4月の事でした。まだ71歳という年齢で多く人がその早すぎる逝去に深い悲しみを覚えました。衣笠さんは2215試合連続出場という前人未到の記録を始めとして数々の記録を打ち立てました。その人柄はすべてのプロ野球ファンに敬愛され、王貞治さんに続いて、国民栄誉賞も受賞しています。広島一筋22年。広島球団では、その背番号3を永久欠番としています。

  一方、江夏豊氏の伝説は、プロ野球ファンには語る必要もないほどに知れ渡っています。1967年にドラフト1位で阪神に入団。ルーキー年度から42試合に登板し、1213敗の成績を残しました。そして、2年目には49試合に登板、2512敗という輝かしい成績を上げました。この年、江夏氏は401奪三振を記録し、この記録はいまだに破られていない不滅の記録として輝いています。その後、9年間を阪神で過ごし、南海に移籍。そこで野村監督と邂逅してリリーフへと転向します。

  江夏さんは当時、先発完投型のプライドを強く持っており、リリーフに転向するくらいなら野球をやめようとまで思い詰めていました。しかし、野村さんの「リリーフとして、日本野球に革命を起こそう。」との言葉を意気に感じてリリーフ転向を決意します。その後、野村監督が球団とのトラブルによって南海を退団した時には、野村監督に恩義を返すために一蓮托生で南海を退団しました。そこから、広島に移籍したことで、衣笠さんとの邂逅を果たします。そして、江夏さんは現役時代に206193セーブという記録を打ち立てます。

  衣笠さんと江夏さんは広島で無二の親友となるのですが、そこには広島のリーグ優勝と日本一が大きな契機となっていました。江夏さんが南海時代の1975年。広島は、衣笠さん、山本浩二さんの活躍もあり、球団初のリーグ優勝を勝ち取ります。しかし、この年の日本シリーズは、当時最強の布陣であった阪急に1勝もできずに敗退しました。その後、広島カープは優勝から遠ざかってしまいます。

  そこに現れたのが守護神江夏投手でした。1977年の12月に移籍した江夏さんは快刀乱麻で広島の守護神として活躍。1979年、広島東洋カープは4年ぶりのリーグ優勝を果たします。そして、広島は、ついに念願の日本一に挑戦します。この時の相手は、西本監督率いる近鉄バッファローズでした。近鉄は、この年プレーオフで阪急を破り、球団創設以来の初優勝を勝ち取って勢い乗っていました。近鉄は、開幕からいきなり地元の大阪球場で2連勝します。

  舞台を広島市民球場に移すと、広島カープは息を吹き返し近鉄に3連勝と勝ち越します。そして、勝負の行方は再び大阪球場へと持ち越されます。近鉄は、意地を示して第6戦で逆転勝ちを収めて、日本シリーズの行方は33敗のタイで最終の第7戦へともつれ込んだのです。

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(衣笠選手引退セレモニー sankei.comより)

  そして、日本のプロ野球史上で最も名高い勝負、「江夏の21球」が日本中を沸かせたのです。

【昭和のプロ野球は面白い】

  平成もいよいよ最後を迎えますが、平成の時代、スポーツは大きく変貌しました。

  先日、NHKのサンデースポーツ2020で平成の特集を組んでいて、オリンピックがお題となっていました。その中で、語られていたのは3つの変化です。まず、平成になって表れたのは「アスリート」という言葉です。昭和の時代、オリンピックの中継やメディアでの言葉は「選手」でした。平成でも初期のころ、新聞でアスリートという言葉が紙面を飾ったのは数回程度でした。ところが、現在では1日の新聞の紙面に「アスリート」という言葉が25回以上出てくると言うのです。

  「アスリート」という言葉が生まれてきたのは、もう一つの変化、すなわち、選手の側が自らの個性を語りだしたことと符牒していると言います。オリンピックでメダルを獲得したアスリートたちの発する言葉がそれを象徴しています。例えば、北島康介さんがアテネオリンピックの金メダル獲得のときに、「チョー気持ちいい、鳥肌ものです。」と語ったのはまさに個性の発信でした。それまで、国を背負って金メダルを目指してきたことが、自らの自己実現のためという個性へと変化してきたのです。

  そして、もう一つの変化は、科学的データに基づいた練習です。2001年に開設された国立科学スポーツセンターでは、屋内プールや競技場に選手の身体能力を科学的に分析するカメラや分析機械が備えられており、選手たちの練習をサポートしています。番組では、北京オリンピックで銅メダル(のちに銀メダルに昇格)を獲得した400mリレーの朝原選手が登場しました。実は、朝原さんはこのセンターで、自らの走りに関してデータを提供されてもそれが有益とは思えなかったと言います。なぜなら、データは自分の走る体の感覚とリンクしない机上の話だったからです。

  こうした朝原さんの声を受けて、科学センターのデータ解析スタッフは、データを可視化することに力を注ぎます。そして、朝原選手の走りを数値データではなく、歩幅のデータに変換。100m走で朝原さんがたどった足跡に変換したデータを提供したのです。朝原さんは、これなら自らの感覚とリンクする、と初めてデータを利用するようになったのです。

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(北京400mリレー初のメダル yahoo.co.jpより)

  プロ野球でもデータは新たな発見をもたらします。

  野球をやったことのある人なら、バッティング練習をするときに先輩やコーチからダウンスウィングを徹底的に教えられた経験があると思います。これは、プロアマを問わず、野球をやる人々の常識で、バットを振るときは脇を締めてバットを上から下に向かって振ることで、最短距離でボールを捕えることができる、ということなのです。プロ野球のコーチも皆、口をそろえてダウンスウィングの効用を説いていました。

  ところが、大リーグやプロ野球のバッティングデータを分析したところ、ダウンスウィングよりもアッパースウィングの方が、打球がヒットとなる確率が高いというデータが確認されたのです。確かにソフトバンクの柳田選手のフルスウィングは、明らかに上を向いていますがバットがボールを捕えるやボールは弧を描いてスタンドへと吸い込まれていきます。かつて、落合博満さんは個性的と言われたアッパースウィングで3冠王に3回輝き、両リーグで打点王を取得するという前代未聞の成績を収めたのです。落合さんの正しさが、データによって証明されたのです。

  さて、平成以降、スポーツも変わりましたが、変わらないものもたくさんあります。

  それは、スポーツを人間が行う限り、人と人とのつながりが感動を呼ぶという事実です。

  この本の面白さは、野球を心から愛する二人の職人が何にも遠慮することなく、人生を掛けたプロ野球とそれに関わった人たちのエピソードを語りつくすところです。スポーツジャーナリストの二宮清純さんは、実は大のカープファン。その豊富な知識から繰り出されるリードはお二人を語らせる潤滑油の役割を担います。この本では、4つの章でプロ野球話が大いに盛り上がります。

序章 歓喜の抱擁―衣笠・江夏から黒田・新井へ

第1章 俺たちの昭和プロ野球―あの人、あの時代に俺たちは育てられた

第2章 「江夏の21球」の裏側―主役と名脇役が初めて語り合う、昭和プロ野球の名場面

第3章 昭和プロ野球は職人の世界だった!―そこには育てる思想、技術の伝達があった!

第4章 優勝の味、優勝の意味―優勝して初めて分かることがある

【野球職人の話に時間を忘れ・・・】

  江夏さんは、南海でリリーフ投手に転向を決意してから、ノムさんの退団と同時に広島に移籍、広島で2年連続日本一に貢献した後に日本ハムに移籍。日本ハムでは大沢親分のもとで日本ハムを19年ぶりのリーグ優勝へと導き、「優勝請負人」と呼ばれました。一方の衣笠さんは、一流の打者であるとともにチームを勝利に導くことがすべての基本となっている、という野球人。この本を読んで初めて知ったのですが、衣笠さんは元キャッチャーだったそうです。

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(広島東洋カープ初の日本一 hochi.co.jpより)

  そんなお二人の話は、とにかく汲めども尽きません。

  「江夏の21球」に関しては、まさにピッチャーとしてマウンドで対峙していた江夏投手とその江夏投手をファーストの守備位置から見つめていた衣笠選手。このお二人が、日本一をかけた最終戦、緊迫の9回裏ノーアウト、満塁、一打サヨナラとの場面で何を考え、何を意識して勝負していたのか。その一幕がリアルに語られていきます。

  ノーアウト満塁の場面、江夏投手がマウンドで怒りに震えた場面がありました。それは、満塁となった次の瞬間、広島の古葉監督が控えのピッチャーをブルペンに送り、スタンバイさせた場面です。ここはピッチャーにすべてを任せるべきところ。なぜ俺の目の前で次のピッチャーを用意するのか、そのことに心から怒っていたのです。しかし、衣笠さんは冷静でした。そして、衣笠さんはある行動に出ます。その行動は、ぜひこの対談で味わってください。思わずニヤリとさせられます。

  この本ではそれ以外でも野球選手を育てるとはどういうことか、その心が語られます。広島で通算22年間投手として活躍。沢村賞も受賞し、最優秀防御率にも2回輝いた大野豊投手。通算成績は148138セーブと素晴らしい成績を残しています。この大投手がルーキーのときには、箸にも棒にもかからないピッチャーだったというのは驚きでした。その時に大野投手の指導をまかされたのが江夏投手だったのです。

  また、日本ハムに移籍した時に正捕手は加藤俊夫選手でしたが、肩が強かったのは大宮龍男捕手でした。そして、大宮捕手の育成を大沢監督から頼まれたのは他でもない江夏投手だったのです。江夏さんは、いったいどうやって大宮捕手を育てたのか。その江夏さんらしからぬ指導法はワンダーです。

  野球の話は、時代が平成であっても昭和であっても尽きぬ面白さがあります。野球ファンの皆さん、ぜひこの本で昭和のプロ野球を楽しんでください。時間を忘れること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


📖今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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posted by 人生楽しみ at 22:46| 東京 ☁| Comment(0) | スポーツ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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